【感想・ネタバレ】「死」とは何か 5分で読みたい方向け

「死」とはなにか イェール大学で23年連続の人気講義ー シェリー・ケーガン』という本を読みました。

この記事で知れること

  • 「死」とは一体なんなのか?怖いものなのか?
  • 「死」と上手に付き合うにはどうすればいいのか?

私はなにかと「死」に興味があり、「死」を学術的に論じているこの本を読んでみようと思った訳です。

人間は長い年月をかけて、合理的で論理的な政治・経済システムを作り上げてきました。
しかし、必ず直面する「死」については誰も解明できていません。

不思議じゃないですか?

私達は誰も「死」を経験していないのに、それに「恐怖」を覚えますよね。
サイヤ人の王子ベジータでさえ、宇宙の帝王フリーザにフルボッコにされて、死を覚悟し泣いていました。

でも厳密にいえば、「死」が怖いものって決めつけられる要素は何もない。
本当に死が「一巻の終わり」なのでしょうか?

だからこそ知りたくて、『「死」とはなにか イェール大学で23年連続の人気講義ー シェリー・ケーガン』を読んでみたんですね。

本書の要点をまとめながら、私なりの意見も踏まえて論じていこうと思います。

死が怖いのは「未知」だから

人はいずれ死ぬことだけはすべての人に平等です。
大企業の社長も、NPO法人で働く人も、人殺しも、旅人も、フリーターも、人体のメカニズム上、MAXで120歳くらいで寿命を迎えるようです。

「死んだら終わり」それが一般的な考え方で、「死=怖い」というロジックが一般論ですが、この本では「死」はそんなに怖いものではないと語っています。

一般的な死への恐怖は、未知のものだから、という点につきます。
「死後」のことは誰も体験していないので、経験談を誰も語れないのです。

例えるなら、お化け屋敷のように、先がまっくらで見通しが立たなく、いつお化けが出てくるかびくびくしているような・・・そんな恐怖に似ていますね。

厳密にいえば「怖い」のではなく「わからない」というのが正しいのかもしれません。

ですが、この本では、死後のことは未知ではないといっています。

死後の世界は存在するのか?

死後のことを語るには「魂」の考え方について議論しなければいけません。

魂が存在するかどうかで、死後の世界(いわゆる天国やら地獄やら)が存在するのかの議論が変わってきます。

僕はどちらかというと死後の世界を信じているタイプですが、根拠は特にありません。
そっちの方がロマンがありますよね。

しかし、本書はこの考えには否定的で、心(魂)は存在しないという立ち位置をとっており、つまり死後の世界は存在しないといっています。

一般的には、死後の世界の考え方については、二元論物理主義の2つ見解がポピュラーだそうです。

二元論

二元論は、人間は身体(生物学者が研究できる物体)と何か別のもの、すなわち心との組み合わせであるという考え方です。
身体はもちろん、肉や血、骨と筋肉の塊で、それとは別に心(=魂)が存在するという見解です。

心は、意識や思考、感情、欲望、記憶などを統括する司令塔のようなもので、身体の中で唯一、非物質的なものだとされています。

物理主義

一方物理主義は、魂はそもそも存在せず、身体だけが存在するという考え方です。

二元論との大きな見解の違いは、考えたり、感じたり、意思疎通をしたり、望んだり、記憶したりすることは、身体の機能に備わっているという見解です。

つまりは人間は、思考したり、歌を歌ったり、恋をしたり、それら全ての機能を備えた入れ物(身体)を有しているだけという考え方です。

筆者の立ち位置としては物理主義に近く、死後の世界は存在せず、死を迎えると人格や思考が「無」になるだけだと捉えています。

「死」はどんな状態か?

そもそも「死」が未知だから「死」が怖いという理屈ですが、「死」は未知ではないというのが筆者の見解です。

では何故、未知ではないのでしょうか?

答えは、死を迎えると「無」になるだけですが、私たちは「無」の状態を経験しているからです。

それは、夢を見ないで寝ている状態です。

この状態はまさに「無」であり、「死」はそれと同じだそう。
だから恐れる必要がないといいます。

また、私たちは胎児のとき、感情や記憶はなく感覚的には「無」でしたが、確実に生きていました。
恐れている「無」の状態を日常的にも睡眠で経験し、生まれる前にも経験しているのです。

そのため、決して未知ではなく、そんなに恐れる必要があるのか?と本書では語られています。

なるほど、確かに理屈はわかる気がするけど、だからと言って死ぬのが怖いのはあまり変わらないな~。
悩みマン
悩みマン
UESHO
UESHO
僕もそう思いましたが、本書では、なぜ死に恐怖するのかのロジックについても語られていました。

「死」に恐怖する最大の理由「剥奪説」

「死」はただ無に返るだけ、つまり存在がなくなるだけと言われても、正直まだまだ怖いと思ってしまいますよね。

ではなぜ怖いと思ってしまうのか?

最大の理由は「剥奪説」が関係していると本書は語っています。

死が悪いのは、人は死んだとき、人生における良いことを剝奪されるからだという。では、死はいつ本人にとって悪いのか?
おそらく、人生における良いことを剝奪されている間だろう。
それなら、人生における良いことを剝奪されているのはいつか?死んでいるときだ。
剝奪された状態は実際にはいつ起こるのか?死んでいるときだ。

死んでしまうと、当然ながら生きたいところに行けないし、会いたい人に会えません。大好きな食べ物を食べることも、欲しいものを買うこともできません。

生きていたら享受できる、数々の良いことができなくなってしまう(つまり権利が剥奪されてしまう)。
それこそが、「死=悪いもの」として捉える最大の原因だと、本書では結論づけられています。

つまり、人間は人生でやりたいことが沢山あったり、希望をもっているほど、死ぬことが怖くなるのだそうです。

自殺はどうとらえるべきか

一方で、これから先の人生に希望が持てない場合もあると思います。

たとえば不治の病を患い、点滴の管が全身に張り巡らされ、痛みを和らげて生きながらえる人生を送る人です。
毎日痛みに耐えながら、治る見込みが低い病気に苦しむ人生はとてもつらいものだと思います。

その場合、その方が自殺を望んだとしても、必ずしも「自殺はダメ」とは言い切れないというのが本書の意見です。
もちろん道徳的には完全NGですが、道徳的な観点を無視すれば、死んだ方がましと思える人生は存在すると考えられるのです。

しかし、現代の自殺の原因の多くは、上記のような理由ではなく、仕事が辛かったり、リストラされたり、彼女にふられたり、人間関係に悩んだりと、、乱暴な言い方をすれば死ぬ必要のない自殺の理由が大半を占めています。

もちろん、その状況下におかれた方は、死にたいほど辛いのかもしれません。

しかし、だからと言って死ぬ必要はありませんよね。そこから先の未来がずっと悪いという訳ではありません。

多くの自殺原因は、自殺したいほど状況が悪い時期は一過的で、自分の努力次第でいくらでも良い方向に持っていける可能性があります。

もしあなたの友人が自ら命を絶ちたいと思っていたら、未来の明るい可能性を提示し、出来ることならそのための道筋を立ててあげられれば、救える命はあるかもしれません。

死を恐れないためには(所管)

死を恐れる理由が「生きていたら享受できる、数々の良いことができなくなってしまう」ことなのであれば、死を恐れないように生きるためには「後悔しないようにやりたいことを全てやりきる」ことだと思います。

人間は言い訳が好きな生き物です。

お金がないからできない、時間がないからできない、人脈がないからできない。

できない理由を探せば、いくらでも言い訳なんで思いつきます。

しかし、もし後悔しないように生きたいのであれば、言い訳を探す生き方から、できる理由を探す生き方に切り替えるべきです。

胸に手を置いて考えてみてください。

何かを言い訳に諦めている夢や目標はありませんか?
行ってみたいことろ、やりたいことを後回しにしてそのまま蔑ろになっていませんか?

もし、心当たりがあるのなら、挑戦する癖をつけた方がいいと思います。

成功するか失敗するかより、挑戦するかしないかの方が後悔に与える影響は大きいです。
全力で挑戦して失敗したら諦めがつくかもしれませんが、挑戦せずにそのまま死の間際を迎えたら、きっと後悔するでしょう。

夢ややりたいことに挑戦し、死を恐れない生き方をしてみてください。

▼本書を読みたい方はこちらから

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